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   <title>Weep for me - ボクノタメニ泣イテクレ &gt; 雑記</title>
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   <subtitle>毎日は書きませんが日記です。読書、音楽、映画なんかの話題はそれぞれ専用のブログでやっているため、そこに入りきらない雑多なものが落ちてきます。</subtitle>
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   <title>児童の写真も映像もステージもすべて禁止にすればいい</title>
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   <published>2009-07-03T03:06:30Z</published>
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   <summary>何が「性欲を興奮させ、刺激する」かなんて真面目に話し合うことじゃない。 ・痛いニュース(ﾉ∀`):【児ポ法】 自民党・葉梨氏「ジャニーズ上半身裸は『1つの思い出』だからOKと考えている。ジャニーズがアウトになるのは民主党案」 それが性欲を興奮させることが目的で存在するものかどうかに関係なく、人は性的に興奮するのだし、しないときはしないに決まっている。まったく性的要素のないドラマの美少女子役を見て抜...</summary>
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      <![CDATA[何が「性欲を興奮させ、刺激する」かなんて真面目に話し合うことじゃない。

・<a href='http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1279889.html' title='痛いニュース(ﾉ∀`):【児ポ法】 自民党・葉梨氏「ジャニーズ上半身裸は『1つの思い出』だからOKと考えている。ジャニーズがアウトになるのは民主党案」'>痛いニュース(ﾉ∀`):【児ポ法】 自民党・葉梨氏「ジャニーズ上半身裸は『1つの思い出』だからOKと考えている。ジャニーズがアウトになるのは民主党案」</a>

それが性欲を興奮させることが目的で存在するものかどうかに関係なく、人は性的に興奮するのだし、しないときはしないに決まっている。まったく性的要素のないドラマの美少女子役を見て抜ける。そんなロリコンはたぶん少なくない。そりゃあ、入浴シーンでもあれば狂喜乱舞するかもしれないけれど、裸ばかりが興奮のポイントではないし意図的な扇情だけが発情を促すわけでもない。まあ、そんなことはきっとみんな分かっている。その意味で、表現規制の議論なんて適当な線引きをしてなんとなく格好を付けるためだけの茶番である。実にコメディタッチで愉しくさえある。

およそ主観でしかあり得ない「性欲を興奮させ、刺激するもの」の話をするのだから、ぼくも開き直って自分の主観のみに基づいて書こう。はっきりいって、ぼくにとってはジャニーズJr.もハロプロもカジュアルなポルノ以外の何ものでもない。ぼくは男だからジャニーズで性的に興奮することはあまりないけれど、それでもあれだけ可愛い男の子が増えてくればナニのナニをナニしたいなんて妄想もそれほど不快ではない。というか、エロの気分さえ乗ればしっかり興奮できるに違いない。もちろん、性的に。そして、ハロプロに至っては性的な意味以外にいいと思ったことがない。

ぼくは中高生の頃「UP to boy」やら「BOMB」やらコテコテのアイドル誌を買っていた。当然、性的な意味で。さしてモテもしないぼくには乳首や性器のあるAVも大変に魅力的だったけれど、乳首も性器もないアイドル誌だって十分に魅力的だった。アイドルの写真や歌や芝居を純粋に楽しんでいたという記憶はない。性的妄想の対象として魅力的だったからこそグラビアも歌も芝居もそれ自体のでき以上に魅力的に思えた。それらはあくまでも性的妄想を支える道具でしかなかったのである。好きなアイドルのすべてがそうだったとはいわない。ただ、高確率でそうだったとはいえる。

インターネットを手に入れてからはカジュアルなエロがいくらでも手に入るようになった。乳首も性器もそこいらじゅうに溢れている。実体験としてのセックスを知らず情報も少なかった中高生の頃はそれだけで興奮できた。が、いまや性器丸見えの写真や映像を探すことは公衆電話を探すよりも容易だ。未成年アイドルの乳首や性器は「レアだ」という意味で多少の興奮を呼び起こすかもしれないけれど、それが「実際に見える」ことはさして重要ではない。大切なのはあくまでも「妄想」である。「妄想」を促さないエロはダメだ。アイドルの「性」は妄想性の高さに担保される。

ぼくは自分がそれほど変わった人間だとは思っていない。18歳未満のアイドルやタレントを性的な目で見ている人は少なくないと思う。テレビで見せるふとした仕草や表情や服装の乱れや躍動する肉体に性的に興奮し思わずナニをナニしてしまう。そんなのはごくごくありふれた風景だろう。そして、性的な魅力がファンを惹きつけることを売る方だって知っている。だから露出度をあげるとかいうのは短絡的で工夫がないとは思う。が、やっぱり効果的なんだろう。それを是としないのであれば、直接的ではないやり方で性的魅力をアピールしろということになる。実に、悪くない。

けれども、それは児ポ法の目指すところでは、たぶんない。きっと児童をポルノという「大人のものであるべき」欲望の坩堝から切り離すことが目的なんだろう。もちろん完璧はあり得ない。深刻なペドファイルを思うなら、ご近所のごく平凡な幼女でさえポルノグラフィックな存在たり得る。だとすれば、巧妙に性的たらんとするアイドルはもとより、あらゆる児童のマス露出は控えさせるべきである。児童を誰の目にも触れさせずに育てることはできないけれど、少なくとも不特定多数の目に晒すようなマネは避けるべきである。これで性的欲望の対象となる可能性はぐっと減る。

そして、カジュアルなエロはなりをひそめ、淫靡で濃厚なエロが陽のあたらない場所に花開く。]]>
      
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   <title>素直に感心してすぐに忘れ去られるライフハック</title>
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   <published>2009-07-02T06:52:07Z</published>
   <updated>2009-07-02T06:58:33Z</updated>
   
   <summary>老人や偉人や賢人や成功者や先駆者の言葉はありがたい。 けれども、そのありがたみは老人や偉人や賢人や成功者や先駆者になってみないと、なかなか解からない。身嗜みを整えろだとか、挨拶はきちんとしろだとか、人の嫌がることを率先してやれだとか、感謝の気持ちを忘れるなだとか、ハイハイゴモットゴモットモ。そうやって、若者は年寄りの言葉に反発し、凡人は賢人の言葉を疑ってかかる。ぶつかって、失敗して、立ち直って、成...</summary>
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      老人や偉人や賢人や成功者や先駆者の言葉はありがたい。

けれども、そのありがたみは老人や偉人や賢人や成功者や先駆者になってみないと、なかなか解からない。身嗜みを整えろだとか、挨拶はきちんとしろだとか、人の嫌がることを率先してやれだとか、感謝の気持ちを忘れるなだとか、ハイハイゴモットゴモットモ。そうやって、若者は年寄りの言葉に反発し、凡人は賢人の言葉を疑ってかかる。ぶつかって、失敗して、立ち直って、成功して、またぶつかって…。そうするうちに、やがて彼らのいうことにも一理あるのかもしれないと思うようになる。素直に聞けるようになるにはそれなりの準備期間が要る。それを「経験」という。

つまり、ありがたい言葉というのはあくまで「気付き」のきっかけであって、いますぐ使えるマニュアルとしてそこにあるわけではない。タイムリーに「ありがたい言葉」に出会えることだってあるだろうけれど、普通はいずれ自分なりに咀嚼されたとき初めて役に立つ。少なくともぼくは、そういうものだと思っている。たとえば、古の格言や名言、創業ウン十年の会社の社訓、年寄りの忠告に親の説教、等々。質や量に差はあれ、どれもベースには「経験」の蓄積がある。それらは最大公約数的にまとめられ、汎用性の高い形で提示される。だから、どうしたって「陳腐」になる。

陳腐だということは、誰にでもいえるということでもある。だから普通は「誰がいったか」が大事になる。つまり、「ありがたい言葉」には権威が要る。そして、権威というのは持たざる者に嫌われるものだったりもする。反発、後に納得、というのはそのために必要なイニシエーションだった。けれども、最近のネットを見ていると時折、少し流れが変わってきたのかなという印象を受ける。富野由悠季の若者批判やら、どこかの年寄りの「深い」言葉やらが、結構、反発されることもなく支持されている。「ありがたい言葉」が、案外素直にありがたがられている。そんな印象だ。

経験の質や量に差がありすぎると、言葉は同じだけの意味を持ち得ない。だから、素直に聞くというのは、本来、すでに同じステージにいて初めてできることのはずだ。にもかかわらず、何か「効率的な方法論」ででもあるかのように「ありがたい言葉」を摂取する。先人たちの「ありがたい言葉」はいつの間にか、手軽に消費される「ライフハック」の一ジャンルになってしまったのではないか。大量消費される「ライフハック」が結局は身に付かないように、「ありがたい言葉」も気の利いた台詞のひとつとして素直に感心されすぐに忘れ去られる。が、それでいいのだとも思う。

いまや格言も名言も、すべてがエンターテイメントというフラットな土俵に載せられている。
      
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   <title>他人の本の読み方にケチをつける人は共感されたいだけ</title>
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   <published>2009-07-01T04:49:57Z</published>
   <updated>2009-07-01T04:56:23Z</updated>
   
   <summary>彼らは実は「共感されたいだけ」…という指摘自体は面白い。 ・36. 「共感できない本」を読めないあなたは、共感されたいだけ。：日経ビジネスオンライン 確かに、共感だけを基準にコンテンツのできを判断するのはもったいないかもしれない。けれども、「これは共感できないからツマラナイ本だ」という感想を目にして、「なるほど、あれはツマラナイ本なのか」と判断する人がいるのだとしたら、それはそう判断する方にも責任...</summary>
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      <![CDATA[彼らは実は「共感されたいだけ」…という指摘自体は面白い。

・<a href='http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20090626/198716/' title='36. 「共感できない本」を読めないあなたは、共感されたいだけ。：日経ビジネスオンライン'>36. 「共感できない本」を読めないあなたは、共感されたいだけ。：日経ビジネスオンライン</a>

確かに、共感だけを基準にコンテンツのできを判断するのはもったいないかもしれない。けれども、「これは共感できないからツマラナイ本だ」という感想を目にして、「なるほど、あれはツマラナイ本なのか」と判断する人がいるのだとしたら、それはそう判断する方にも責任があろう。その書評が「比較的広範な文学的知識や比較的公平な主観に基づくもの」か「極めて狭い見識と極めて個人的な感情のみに立脚したもの」かを見分けるのも、また、受け取り手の問題だろうからだ。そして、どんな評をどう参考にしどう受け流すかも、すべては受け手の自由であり、裁量である。

もちろん、ある程度以上の影響力を持つ人が共感だけを理由にある作品をこき下ろし、しかも、それを巧妙に客観的かつ一般的評価たり得るよう粉飾して発表したというなら問題だろう。倫理的に看過し難い。それを見破るのも受け手の腕だということはできるけれど、そこまでのリテラシーを前提にすることは、どんな言論の場であれ健全とはいえない。ただ、個人的な共感に基づいて本を評すること自体は、その個別性を隠蔽し一般化したりしない限り、まったく悪いことだとは思わない。それはインターネットに溢れる口コミの面白さでもあろう。何も「恐ろし」くなんてない。

そもそも本に何を求めるかは個人の自由である。登山にでも挑むように晦渋な文章に挑むのも、ただ好みの文体に酔うのも、アクロバティックなストーリー展開に翻弄されるのも、ページを開きもせず枕にするのも、読めもしない洋書をインテリアにするのも、別に、本の愉しみ方として間違ってはいない。ただただ「共感」を求めるのだって立派な本の愉しみ方だろう。高度に文学的な読みだけが正しいわけではないし、優れているというものでもない。芸術的感動は絵画に求め、文学的感動は詩に求め、小説にはただ共感のみを求める。そんな人がいてもいい。善悪も優劣もない。

たとえば「共感」しか愉しみ方を知らない人に、「こんな愉しみ方もあるよ」といってもっと別な読書の面白さを教えてあげる。そういう試みはあってもいい。自分以外の誰かをより豊かな読書体験に導けるなら、本好きとしてこんなに嬉しいことはないだろう。けれども、あなたの読みは間違っているとか、お前の読みは浅いとか、ベストセラー小説しか読まないなんてカスだとかいって、他人の本の読み方にケチをつけるのはちょっと下品だと思う。その結果として出てくる個人的な感想を否定するのもやっぱり筋が違う。それはそれで共感とは別の何かに縛られているんだろう。

共感できない他人の読みを否定することと、共感できない本を否定することはよく似ている。]]>
      
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   <title>「やらない」のは「できない」のと同じ</title>
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   <published>2009-06-30T03:52:41Z</published>
   <updated>2009-06-30T03:59:25Z</updated>
   
   <summary>金持ちになりたいとは思わない。 金持ちを見てそういう人がいる。それは「金持ちになれない」といっているのと同じだろう。「なれないんじゃない、ならないんだ」…なんていい換えに意味はない。いい換えを必要とするのは「なれない」ことを蔑む心だ。或いは、蔑む視線を気に病む心だ。なんだかんだいってもお金はたくさんあるに越したことはない。大金持ちになれるものならなってみたい。その程度にはいいものだと思っている。憧...</summary>
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      金持ちになりたいとは思わない。

金持ちを見てそういう人がいる。それは「金持ちになれない」といっているのと同じだろう。「なれないんじゃない、ならないんだ」…なんていい換えに意味はない。いい換えを必要とするのは「なれない」ことを蔑む心だ。或いは、蔑む視線を気に病む心だ。なんだかんだいってもお金はたくさんあるに越したことはない。大金持ちになれるものならなってみたい。その程度にはいいものだと思っている。憧れている。だから「なれない」自分は否定されなければならない。「ならない」自分をアピールしなきゃならない。そして「なれないんじゃない」とわざわざ断ることになる。

心底やろうと思わないなら、わざわざ「やろうと思わない」なんていったりしない。それを断らなきゃならない価値観自体、理解できないはずだからだ。「金持ちになんてなろうとは思わない」とわざわざ表明する人は、「ホームレスになんてなろうとは思わない」などといちいち宣言したりはしない。ホームレスにだって「なろうと思えばなれる」はずである。けれども、「なろうと思わない」なんて宣言する必要性を感じない。いい換えれば、そこにアリバイは不要だと思っている。逆に、あえて口にするのはアリバイが欲しいからだろう。なれていないことへのアリバイである。

別に「なれないんじゃない、ならないんだ」という主張が「嘘」だといっているのではない。むしろ多くの真実を含んでいるんだろうとさえ思う。たとえば「金持ちになろうとは思わない」という言葉には、たぶん（他の何かと引き換えにしてまで）といった含意がある。（だらだら過ごす休日を返上してまで）とか（平社員の気楽な身分を捨ててまで）とか（将来のための勉強や努力に時間を割いてまで）とか、そんな含意である。ダラダラと無為な時間を過ごすから金持ちになれないんじゃない。金持ちになる努力よりもダラダラと無為な時間を過ごすことを選んでいるのである。

けれども、その「やりたいこと」に自分で価値を見出せない。やりたいことは一生ダラダラ過ごすことなんですと自分でもキッパリ思い切れない。だからアリバイが必要になる。「やった方がいいんだろうけれどできない自分」を発見する、或いは、周囲に発見されるのを恐れて「できないんじゃない、やらないんだ」と予防線を張る。やればできる子なんていない。やったらできちゃった子と、やってもダメだった子と、やらない子がいるだけだ。そして、やらない子はやればできる子なんかではない。やれない子である。能力的にできないか心理的にできないかの違いでしかない。

そして、能力的にできないより心理的にできない方がマシだなんて理屈はない。
      
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   <title>直島とアートと愛について</title>
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   <published>2009-06-24T02:39:24Z</published>
   <updated>2009-06-24T02:51:48Z</updated>
   
   <summary>直島に行く。 明日から一泊の旅程である。島と名の付く観光地は自然や景観をウリにしたリゾートであることが多い。直島は違う。むしろ、ディズニーランドやUSJに近い。いわばアートを主題にしたテーマパークである。酷くアーティフィシャルで、それゆえに愛すべき島である。アートは人の肉体を生かしはしない。不要といえばこれほど不要なものもない。人が生きるか死ぬかというとき、真っ先に捨てられるもの。アートこそ、その...</summary>
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      直島に行く。

明日から一泊の旅程である。島と名の付く観光地は自然や景観をウリにしたリゾートであることが多い。直島は違う。むしろ、ディズニーランドやUSJに近い。いわばアートを主題にしたテーマパークである。酷くアーティフィシャルで、それゆえに愛すべき島である。アートは人の肉体を生かしはしない。不要といえばこれほど不要なものもない。人が生きるか死ぬかというとき、真っ先に捨てられるもの。アートこそ、その筆頭だろう。けれども、そういうものをこそぼくたちは愛するべきではないか。愛されなければ失われてしまう。だからこそ、愛するべきなのだとぼくは思う。

音楽を愛し、文芸を愛し、マンガを愛し、二次元少女を愛する。その愛は何ものをも生かさず、ただ自らの精神のみを生かす。それをただ一方的な、空虚な愛だという人はたぶん何かを思い違えている。たとえば、人を愛する。それだって本質的には同じことだ。人は自らの精神を生かすために人を愛する。それは酷く一方的で身勝手なものだ。相思相愛とは、決してひとつの愛を共有することではない。ただ、一方的なふたつの愛が互いの方向を向いている。愛に意味や充実や幸福を見出しているから愛する。ただそれだけのことだ。そして、ただそれのみこそが大事なことなのだ。

人間は立派なメンタルジャンキーに進化した。パンのみに生きるにあらず、とはそういうことだろう。心を喪くして生きることを是としない。よりラディカルに死と同義だと考える。そうやって人は幸福を縛った。それでも、ただ愛することで精神は生きる。そのはずだった。けれども、アートが、音楽が、文芸が、マンガが、二次元少女が愛を失って滅びるように、人も愛されなければ死んでしまう。そんなふうに感じるようになった。本来、愛されることに意味はないはずだった。それは求めるべきものでも求め得るものでもない。ただ自らの内に生まれいづるもののはずだった。

そして精神から自由になれないぼくは開き直って、だから、直島に行く。
      
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   <title>彼女が結婚しない理由</title>
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   <published>2009-06-22T10:30:12Z</published>
   <updated>2009-06-22T10:37:44Z</updated>
   
   <summary>どうして結婚しないの？ 彼のことは好きだけど結婚てなると家のこととかしなきゃなんないし、いまみたいに自由に洋服買ったり外食したりできなくなるでしょ…とは、ぼくの知人の言葉である。そうした理由で結婚を躊躇う。たぶん、珍しい話ではない。何かを選ぶことは別の何かを捨てることだ、とはいい古された台詞である。確かに人は、いま結婚することで得られる未来と、いま結婚しないことで得られる未来を同時に手に入れること...</summary>
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      どうして結婚しないの？

彼のことは好きだけど結婚てなると家のこととかしなきゃなんないし、いまみたいに自由に洋服買ったり外食したりできなくなるでしょ…とは、ぼくの知人の言葉である。そうした理由で結婚を躊躇う。たぶん、珍しい話ではない。何かを選ぶことは別の何かを捨てることだ、とはいい古された台詞である。確かに人は、いま結婚することで得られる未来と、いま結婚しないことで得られる未来を同時に手に入れることはできない。これは何も結婚に限った話ではない。就職を躊躇うフリーターでも子作りを躊躇う夫婦でもいい。似たようなシチュエーションはいくらでもあるだろう。

つい、失うものばかり数えてしまう。そんなときは少し立ち止まって考えてみた方がいい。それは本当に大切なものだろうか。自由に洋服が買えることや外食できることが、自分をどれほど幸せにしているだろう。失したくない自由な時間とやらは、いまの自分をどれほど充実させているだろう。本当に大切で失くしたくない何かがある。それはとても幸福なことだと思う。だから、それを捨てなきゃできない結婚や子作りや就職なら、しない方が幸せかもしれない。果たしてそれほどのものが自分にはあるだろうか。どんなツマラナイものでも人は捨てるとなると惜しくなるものだ。

結婚しても子どもができても就職しても1日は24時間だし、1年は365日である。また、「自分のためだけの時間」のみが「自分の時間」でもない。生まれて死ぬまでのすべての時間が「自分の時間」である。結婚して目減りする「自分のためだけの時間」は「自分と伴侶のための時間」になり、子どもができて目減りする「自分のためだけの時間」は「自分と子供のための時間」になる。仕事についてはそう単純ではないけれど、いずれ、フリーターの自由とサラリーマンのそれとの間に有意な差があるとは思えない。どちらもそれなりの自由と不自由のトレードオフの結果でしかない。

だから、自分が「変わらない」理由を「失うもの」に求めるのは危険だ。下手をすると、くだらないゴミを握りしめたまま幸福を掴み損ねる、なんてことになりかねない。そうならないためにも「失うもの」の質を見極めることは大切だ。そして、できることなら減点法ではなく加点法で考える。たとえば、「変わらない」ことで得られる未来の幸福と「変わる」ことで得られるかもしれない未来の幸福、という具合に。そして、より得るものの多そうな方に賭けてみる。もちろん、現状維持こそが我が幸福であると結論したなら、迷うことなく現状維持に努めればいい。正解はない。

ただ、何かを決断しないという「選択」も、決断するのと同程度にはリスキーなのである。
      
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   <title>たとえ「悪くなくても」犯されるという問題</title>
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   <published>2009-06-19T04:28:09Z</published>
   <updated>2009-06-19T06:32:34Z</updated>
   
   <summary>これはもう正論中の正論だろうと思う。 ・minori kitahara column: 京都教育大学の集団強姦事件 セックスしたい女性は「したい相手としたい」のである。そのために行動して「したくもない相手にされる」ことを容認しなければならない道理はない。断じてない。およそ、自暴自棄になって「誰でもいい」と嘯いていてるような女性でも、犬に犯されるのは不本意だくらいには思っている。「誰でも」は、せいぜ...</summary>
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      <![CDATA[これはもう正論中の正論だろうと思う。

・<a href='http://www.lovepiececlub.com/kitahara/2009/06/post-173.html' title='minori kitahara column: 京都教育大学の集団強姦事件'>minori kitahara column: 京都教育大学の集団強姦事件</a>

セックスしたい女性は「したい相手としたい」のである。そのために行動して「したくもない相手にされる」ことを容認しなければならない道理はない。断じてない。およそ、自暴自棄になって「誰でもいい」と嘯いていてるような女性でも、犬に犯されるのは不本意だくらいには思っている。「誰でも」は、せいぜい「本当に好きな相手じゃなくても」くらいの意味合いでしかない。だから「誰でも」なんていっていても、ヤリたい盛りのガキのたまり場にヤラれに行く女性はあまりいない。本当に「強姦されること」に快感を覚える人はいるかもしれないけれど、極めて稀だろう。

だから、無理に犯すような奴は男女を問わず糾弾されるべきだし、犯された側が責められる理由は男女を問わずひとつもない。少しお酒に酔っているらしい妙齢の魅力的な女性が全裸でぼくのベッドに入ってきて、「あなたとセックスする気はないの、ただ人肌恋しくて全裸で抱き合って眠りたいだけ」なんて思っていたとして、そんな相手に「セックスしたいの？」なんてぼくは訊かないだろうし、そう低くない確率でセックスを挑んでしまうだろうと思う。翌朝、「昨夜のセックスは不本意なものだったわ、あれは強姦よ」と責められたとして、ぼくはどうしていいかわからない。

これは極端な例かもしれないけれど、少なくとも、その女性が「ただ人肌恋しくて全裸で抱き合って眠りたい」と思ったことは罰せられるべき罪なんかじゃない。そして、行動したことも。ただ、この行動から「ぼくに犯されるかもしれない」というリスクを取り除くことは難しい。その女性は悪くない。たとえ地球人類のすべてがそう認めたとしても、犯されるかもしれないリスクがゼロになるわけではない。つまり、「犯された女性を決して責めない」或いは「強姦した側が100%悪い」という考え方が当たり前の世の中になっても、犯されるリスクそのものは消えないのである。

要するに「犯された人間を責めるべきではない」という議論と「犯されないためにどうすべきか」という議論は、別の問題と捉えるべきなのである。後者の視点で「リスクヘッジのために、女性は危険な場所に扇情的な恰好で行くべきではない」と誰かがいう。すると前者の視点で「扇情的な恰好をする女性が悪いというのか、それは女性の欲望に対する抑圧である」と誰かが反論する。不毛である。扇情的な恰好をする女性が「悪いから」犯されるのではない。まったく「悪くなくても」犯されるのである。その危険をどうやって減らすべきかという視点を無視することはできない。

強姦はする方が悪い。であれば、厳罰に処すことで抑止に努めるべきなのか。人肌恋しくて全裸で異性に抱きつこうが、ほろ酔い気分で異性とふたりきりになってディープキスを繰り返そうが、セックスがしたいのだとは限らない。合意なく犯せば強姦である。それはいくらなんても全裸で迫ったりヨダレまみれでキスする方にも原因はあるだろう。そういう人は出てこないだろうか。出てきたとしたら、「どこまで」なら100%やった方が悪くて、「どこから」ならやられても仕方がないというのだろう。線引きは可能だろうか。無理だろう。すでに感覚の問題になってしまっている。

「（犯される方にも原因があるのだから）犯されないために自重しろ」とはあまりに破廉恥な発言だろう。けれども「（悪くなくても犯されることはあるのだから）犯されないために自重しろ」というのは、果たして責められるべきことだろうか。寂しいとき、女性が男性の友人宅に行って抱きしめてもらいたいと望むことは、別に悪いことではない。悪くはないけれど、その異性が自分のことを好きで性欲の対象でもある、或いは、その可能性が少なくないというとき、本当に「犯されたくない」なら行くべきではないとアドバイスすることは女性に対する抑圧というべきだろうか。

自衛を勧める言葉は、必ずしも、女性を責める言葉とイクォールではないとぼくは思う。]]>
      
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   <title>病欠中に遊ぶような社員は首にしたって構わない</title>
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   <published>2009-06-17T13:19:45Z</published>
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   <summary>・権利ばかり主張して義務を果たさない無能人。｜未来予想株式会社COO 庄子素史の日記 ・はてなブックマーク - 権利ばかり主張して義務を果たさない無能人。｜未来予想株式会社COO 庄子素史の日記 現行法がどうなっているかという話はひとまずおいておく。 ぼくの手に余るということもある。が、それが「正しい」という保証もない。だから、ぼくは現行法ではなく「そうあって欲しい社会」を念頭に書く。その上で、「...</summary>
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      <![CDATA[・<a href='http://ameblo.jp/miraizblog/entry-10250941904.html' title='権利ばかり主張して義務を果たさない無能人。｜未来予想株式会社COO 庄子素史の日記'>権利ばかり主張して義務を果たさない無能人。｜未来予想株式会社COO 庄子素史の日記</a>
・<a href='http://b.hatena.ne.jp/entry/http://ameblo.jp/miraizblog/entry-10250941904.html' title='はてなブックマーク - 権利ばかり主張して義務を果たさない無能人。｜未来予想株式会社COO 庄子素史の日記'>はてなブックマーク - 権利ばかり主張して義務を果たさない無能人。｜未来予想株式会社COO 庄子素史の日記</a>

現行法がどうなっているかという話はひとまずおいておく。

ぼくの手に余るということもある。が、それが「正しい」という保証もない。だから、ぼくは現行法ではなく「そうあって欲しい社会」を念頭に書く。その上で、「病欠中に遊んでいることが判明した社員を馘首すること」を、ぼくはイケナイことだとは思わない。少なくともこれは、「このくらいの理由で首にするなんて酷い！」という話ではないだろう。いかなる理由であれ雇用者が不要と判断した社員を馘首するのは、本来、当然のことではないか。それができないのは、被雇用者の生活が不安定になるからである。会社は「不要な社員」にまで責任を持たされているのである。

それは果たして「当たり前」のことだろうか。雇用者には「雇った責任」があるという。確かに選んだのは雇用者側だろう。けれども、本当に有用な社員であるかどうかなんて実際のところ雇ってみなければ判らないものだとぼくは思う。どんなに手練の面接官でも数度会っただけの他人と会社の相性なんてそう簡単に見抜けるはずはないのである。それを「雇った以上は責任を持て」などといわれる。しばらく様子を見てから適性が低いことに気が付いても、もう遅い。年間最低数百万は持っていかれる。酷く一方的なリスクである。企業が雇用に対して慎重になるのも当然だろう。

企業の雇用を委縮させる。労働者にとっても望むところではないはずだ。「失敗を許さない雇用システム」は雇用者も被雇用者も幸せにしない。企業も労働者も共にTry and Errorが許される。本来、そうあるべきではないか。「病欠中に遊ぶような社員は要らない」という企業もあれば「休暇中に何をしようが有用であれば結構」という企業もあるだろう。その採用方針によって「本当は有用な人材」を取り逃がすとすれば、それは会社の責任である。そして、前者のような会社を首になった人が、後者のような会社に巡り合えればいい。その間に食い詰める心配がないことも大事だ。

要するに、こうした雇用にかかるリスクは「福祉」に類する問題と考えるべきなのである。それは「会社」ではなく「社会」が負うべきリスクである。もちろん、現状でも雇用保険といった福祉システムは存在する。それでも「会社」に過大な雇用リスクを負わせているのである。つまり、本来営利団体であるべき企業が福祉システムの一端を背負わされているということになる。そのせいで体力の低下した企業は雇用に消極的になり、離職者の再就職は困難になる。離職が即、生活不安に繋がる。労働者は企業に権利を主張せざるを得ず、たとえ適正がなくてもしがみつこうとする。

病欠中に遊ぶ社員を首にもできない。それは、労働者にとっても生き辛い社会である。


【関連ページ】
・<a href="http://diary.lylyco.com/2009/06/post_323.html" title="ブログで論理思考を鍛える方法（※実例サンプル付き）">ブログで論理思考を鍛える方法（※実例サンプル付き）</a>]]>
      
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   <title>ブログで論理思考を鍛える方法（※実例サンプル付き）</title>
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   <published>2009-06-17T13:15:41Z</published>
   <updated>2009-06-17T15:57:14Z</updated>
   
   <summary>01：題材を選ぶ これは、はてなブックマークの人気エントリー辺りから適当に選んでくればいい。議論の余地さえあれば何でもいいと思う。ただし、賛否両論よりは賛否いずれかに偏っている方がいい。しかも、そんな世間（はてな村？）の反応に全力で同意してしまうような話題がいい。さらにいえば、思わず感情的になってしまうネタであれば、なおいい。理由は次項に譲る。ただ、門外漢が専門性の高い話題に突っ込むような真似は極...</summary>
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://diary.lylyco.com/">
      <![CDATA[<em>01：題材を選ぶ</em>

これは、はてなブックマークの人気エントリー辺りから適当に選んでくればいい。議論の余地さえあれば何でもいいと思う。ただし、賛否両論よりは賛否いずれかに偏っている方がいい。しかも、そんな世間（はてな村？）の反応に全力で同意してしまうような話題がいい。さらにいえば、思わず感情的になってしまうネタであれば、なおいい。理由は次項に譲る。ただ、門外漢が専門性の高い話題に突っ込むような真似は極力避ける。鍛錬を兼ねた遊びなのだから「自分で考えられる」ことが大事だ。つまり、「素人だからこそいえることがある」というようなケースなら構わない。

ex.)
・<a href='http://ameblo.jp/miraizblog/entry-10250941904.html' title='権利ばかり主張して義務を果たさない無能人。｜未来予想株式会社COO 庄子素史の日記'>権利ばかり主張して義務を果たさない無能人。｜未来予想株式会社COO 庄子素史の日記</a>
・<a href='http://b.hatena.ne.jp/entry/http://ameblo.jp/miraizblog/entry-10250941904.html' title='はてなブックマーク - 権利ばかり主張して義務を果たさない無能人。｜未来予想株式会社COO 庄子素史の日記'>はてなブックマーク - 権利ばかり主張して義務を果たさない無能人。｜未来予想株式会社COO 庄子素史の日記</a>


<em>02：無条件で少数意見に与する</em>

ポイントというならここがそうだろう。「自分の意見」というのは案外「みんなの意見」や「場の空気」に染まり易い。ぼく自身どこかのエントリーを読んだ後、ブックマークのコメントを見ると簡単に大勢に飲まれてしまったりする。それで「自分なりの評価」をしたつもりになる。完全に思考をアウトソースしてしまっているのである。それも、ほとんど無自覚に、だ。これはイタダケナイ。或いは、「感情的に」なるというのもまた理を失い易い状態の代表だろう。だから敢えて、感情を逆撫でするような意見に寄り添ってみる。そうして初めて見えてくるものは、たぶんある。

ex.)
・主張する内容 &gt; 病欠中に遊ぶような社員は首にしたって構わない


<em>03：理路を組み立てる</em>

ようやく論理の出番である。「多数派」や「素直な感情」に反するのだから、簡単ではないかもしれない。そこが鍛錬である。ただ、特別なことをしようというのではない。正攻法でいけばいい。まず「視点を変える」、その上で「多数派の理に瑕疵を見出す」、そして「その瑕疵を別の理で埋め立てる」。筋が通っている限り、「自分はそういうのは嫌いだ」とか「世間では通用しない」とか「常識的ではない」とかいうような、「理屈ではない何か」は顧みない。すると、確かだと思っていた「自分の意見」なるものが、あやふやな恣意にすぎなかったことに気付くかもしれない。

ex.)
・視点を変える &gt; 労働者の権利は守られるべきだ⇒守るのは雇用者の役割か？
・多数意見の疵 &gt; 適性の低い社員を馘首できない⇒雇用リスクが高く雇用を委縮させるのでは？
・瑕疵を埋める &gt; 雇用者、労働者双方のリスクヘッジ⇒リスクは会社ではなく社会が負うべき


<em>04：エントリーに仕立てる</em>

ここまでくれば、あとは肉付けをしてやるだけだ。具体例を挙げる、傍証を示すなど、説得的な材料を適宜配し、同時に誤解されそうな部分やあえて無視している部分、論として弱いだろう自覚のある部分には最小限の予防線を張っておく。まあ、突っ込まれること自体は悪いことではない。本当なら、予防線など張らないに越したことはない。論が冗長になるようでは本末転倒である。本論よりいい訳の方が長いなんてのは論外である。とりあえず書きたいことを書いたら、あとはバサバサと削ってやるのがいい。関係性の薄い部分、枝葉に伸びすぎた部分は心を鬼にして削除する。

ex.)
・<a href="http://diary.lylyco.com/2009/06/post_324.html">病欠中に遊ぶような社員は首にしたって構わない</a>]]>
      
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   <title>仕事嫌いを治療するための５つの処方箋</title>
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   <published>2009-06-16T08:00:11Z</published>
   <updated>2009-06-16T08:04:18Z</updated>
   
   <summary>01：仕事嫌いの人と仕事の話をしない 他人のいうことになんて左右されない。そういう人は別にいい。けれども、思いのほか外野の声というのは内面に抜き難い影響を与えるものだ。よく知らないものでも、人は簡単に嫌いになれる。朝鮮や中国が嫌いな人は、必ずしも朝鮮や中国をよく知っているわけではない。同僚に会社の厭なところばかり聞かされていれば、自分の職場にネガティブな感情を植え付けられる公算は高い。或いは、「仕...</summary>
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      <![CDATA[<em>01：仕事嫌いの人と仕事の話をしない</em>

他人のいうことになんて左右されない。そういう人は別にいい。けれども、思いのほか外野の声というのは内面に抜き難い影響を与えるものだ。よく知らないものでも、人は簡単に嫌いになれる。朝鮮や中国が嫌いな人は、必ずしも朝鮮や中国をよく知っているわけではない。同僚に会社の厭なところばかり聞かされていれば、自分の職場にネガティブな感情を植え付けられる公算は高い。或いは、「仕事は辛い、働きたくない」…休みのたびにそんなオーラを出しまくる親に育てられれば、その子が将来働きたくないと思うのは自然すぎるほど自然なことだ。その責任は小さくない。

別に、仕事嫌いの人となんて付き合うな、といいたいわけではない。その人が嫌いなものの話は極力するな、という話である。お金を稼ぐばかりが豊かな人生ではないだろう。無理に仕事の話をすることはないはずだ。その人が嫌いなものではなく好きなものの話をする。その方が楽しいし、自分の知らない楽しさにだって出会えるかもしれない。漫画が好きな人とは漫画の話をすればいいのだし、興味がないならその人から漫画の面白さを発見すればいい。嫌いなものへの呪詛を聞かされるよりはずっと有意義だ。逆にいえば、仕事の話をしたいなら仕事が好きな人とすべきである。

<em>02：仕事を時給換算しない</em>

お金の計算は大切だし、仕事とお金を切り離して考えることはちょっとできない。食うための一番今風なやり方が「お金を稼ぐこと」なんだからこれは仕方がない。けれども、報酬の不満を自分の労力で量るなんて不健康なことはすべきじゃない。思ったほどお金に換わらなかった過去の労力を反芻しても気が滅入るばかりだろう。そんなことをしてもまずやる気は起こらない。十中八九起こらない。どうせ考えるなら、どうしてお金に換わらなかったのか、どんな労力ならお金に換わるのかを考える方がまだいい。そして自分は時間や労力を単価で切り売りしたいのか自問してみる。

とはいえ、あからさまに待遇が酷い職場というのもあると思う。運悪くそういう場所にハマり込んでしまったのなら、なんとか状況を変えるか、そこから抜け出す方法を考えるよりない。ただ、気軽に「搾取」なんて流行の言葉を自らに当て嵌めるのはやめた方がいい。特に根拠のないそれは厄介だ。心を蝕む。しかも「搾取」の物語というのは安手の陰謀論にも似て、大抵の人に当てはめることができる。負のワイルドカード、或いは、ブラックボックスみたいなものである。もちろん、時間や労力を切り売りしたいなら、そういう仕事を選ぶ道だってあってしかるべきだとは思う。

<em>03：仕事という総体ではなく具体的に何が嫌いなのか考える</em>

仕事は嫌なものだという子供の頃からの擦り込みが大人になっても抜けない。実のところ、そういう人は少なくないんじゃないかと思う。子供の頃、自分はどうして仕事は嫌なものだと思っていたのか。それこそ、連日勇者のレベルを上げるために黙々とコントローラーのボタンを押し続けられるような、高度にルーティンワークが得意な子供でさえ「サラリーマンは厭だ」などと思い込んでいたりする。仕事が嫌いだ、とはあまりに具体を欠いている。漠とした不満など解消のしようがない。仕事というのはそれでひとつの行為ではない。もっと具体的な、小さな行為の総体である。

「趣味の労力」と「仕事の労力」の決定的な差は何か。本当に自分が嫌いなものの正体は何なのか。一度は突き詰めて考えてみる価値があると思う。もしかすると、ただ客のひとりが鬱陶しいだけなのかもしれないし、上司とうまくいかないのが憂鬱なだけかもしれない。人付き合いが苦手なだけで仕事が嫌いなわけじゃない。そんな人はいるだろう。或いは、夜更かし癖があって朝起きるのが辛いだけだとか、実は恋人がいないせいで日常が不満で一杯なだけという可能性すらある。それを「仕事嫌い」だと思い込む。いかになんでも大雑把にすぎる。それは「仕事嫌い」ではない。

<em>04：仕事がなければ死ぬまで何をするのか想像する</em>

明日から働かなくていい。食い詰める心配もない。さあ、明日は何をしよう。特に思い付かないからとりあえずしばらくはゆっくりして…なんて思ったならこれは要注意だ。大抵の人が明後日もその次の日も来週も来年も、特にやることなんてなくて「ゆっくり」してしまう。精々、休みの日や退社後や仕事中にやっていたネットやゲームや漫画やテレビの時間をダラダラと拡張するくらいのものだろう。そうなると、それはもう「ゆっくり」という贅沢ではない。否、別に死ぬまでダラダラするのが夢だという人がいても構わない。が、大抵の人はそうじゃなかろうと思うのである。

今、仕事より楽しいことは何か。余暇にやるから楽しい、ということはないか。人間はたとえ食うに困らなくても何もせずに生きることはできない。ならば、自分はその膨大な死ぬまでの時間をどうやって過ごせば幸せなのか。何かがやりたいわけじゃない。ただ、今の仕事が嫌いなだけだ。では、今の仕事から解放されることで嫌いではない毎日がやってくるのか。「働かなくていい」というのは本当に幸福の条件たり得るのか。たとえ仕事から解放されても、やっぱりつまらない毎日がやってくるだけという可能性はないか。そして今、毎日がつまらないのは本当に仕事のせいか。

<em>05：仕事を義務だと思い込まない</em>

広義に捉えるなら、仕事はたぶん、義務ではない。生きている限り勝手にしてしまっているものだろう。人にはそれぞれ役割があって、その役割を果すことで生きている。それは必ずしも「働いて他人からお金を貰う」という形を取るとは限らない。たとえば「子供は遊ぶのが仕事」なのは、今の社会が、或いは、多くの親たちがそれを子供の役割と認めているからにすぎない。一方、毎日毎日遊べという圧力をかけられれば、遊ぶのが嫌になる子供はいるだろう。子供の時間を遊ばずに生き切ることは難しい。そして、「遊び」は誰かに決められた不自由な何かでも、義務でもない。

「遊び」を「仕事」に置き換えても同じだ。思い込みはときに人を縛る。人の中で生きる方法はおそらく無限にある。人間というのは基本的に利己的なものだ。だから、誰かの利己にさえ適えば生きていける公算は大きい。そして本来は、どんな人間でも生きていけるように調整するのが「社会」の役割でもある。それが必ずしもうまく機能していないのは大変遺憾だけれども、少なくとも、今就いている職業が「義務」だなんてことはない。極論すれば、飯を食うのが面倒だといって野垂れ死んだって構わないのである。その自由は常にこの手にあって、誰にも奪うことはできない。]]>
      
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   <title>消えたベルキューブの行方を伊藤ハムに問い合わせてみた</title>
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   <published>2009-06-15T07:09:52Z</published>
   <updated>2009-06-15T08:18:34Z</updated>
   
   <summary>いつの間にか、ベルキューブの「ビストロ」が市場から消えている。 そう思って行く店行く店で気を付けて見ていた。「ビストロ」だけではない。プレーン以外、すべてなくなっている。ベルキューブというのは、ぼくが気に入っているチーズの名前だ。比較的手軽に普通のスーパーで買えるチーズの中では一番のお気に入りである。スーパーの棚によくあるパッケージ商品のチーズとしては確かに少し高い。だから、ぼくにとってはちょっと...</summary>
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         <category term="身辺雑記" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   <category term="474" label="自宅グルメ" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://diary.lylyco.com/">
      <![CDATA[いつの間にか、ベルキューブの「ビストロ」が市場から消えている。

そう思って行く店行く店で気を付けて見ていた。「ビストロ」だけではない。プレーン以外、すべてなくなっている。ベルキューブというのは、ぼくが気に入っているチーズの名前だ。比較的手軽に普通のスーパーで買えるチーズの中では一番のお気に入りである。スーパーの棚によくあるパッケージ商品のチーズとしては確かに少し高い。だから、ぼくにとってはちょっとした贅沢品でもある。中でも、家呑みのお供として愛食していたのが「ビストロ」というアソート商品だった。ハム、オニオン、トマトの３種がセットになっていて、適度にスパイシーな味がとてもお酒に合う。

それが、プレーンしか見かけない。プレーンも美味い。けれども、お酒のお供としては少し物足りない。甘く感じてしまう。やはり「ビストロ」が恋しい。もう生産されていないのかと諦めかけていた。それでもスーパーに行くとつい探してしまう。ついには行ける範囲のスーパーというスーパーを確認して回った。ない。こうなったら通販でもいいやと探してみるも、やっぱりない。そこまでして初めて公式サイトを確認するに至った。なんという情報弱者っぷりか。生産終了の告知はない。が、プレーン以外の情報がなくなっている。思い余って販売元の伊藤ハムに問い合わせた。

<blockquote>平素は弊社商品にご愛顧賜り、心よりお礼申し上げます。<br />お問合せの件につきましてご連絡させて頂きます。<br /><br />ベルキューブは、フランス・フロマジュリーベル社からのからの輸入品でございます。<br /><br />このたび、製造者からの意向があり、ベルキューブのアソート品(ビストロ、ア・ラ・プロバンス、フロマージュ)3品につきまして、パッケージをリニューアルする為 生産工場の整備が必要になり、この春から一時的に日本への輸入・販売を休止することになりました。<br /><br />弊社としましては、これらの商品は人気商品でもあり、輸入が出来ないことは大変残念なのですが、より良いパッケージ形態にリニューアルし、お客様によりご安心頂ける商品をお届けできるよう、努力して参ります。リニューアル商品の発売は、現在のところ、本年秋から冬頃を予定しております。上記の次第でございますので、何卒ご理解賜りますと共に、今後とも弊社商品により一層の
ご愛顧を賜りますよう、お願い申し上げます。</blockquote>


おお、何という嬉しい知らせ。確かに、半年は長い。そして、発売時期やなんかについても100%確実というわけではないだろう。それでも、少なくとも生産が終了したわけではないし、リニューアル後には販売を再開する予定でいるらしい。それが分かっただけでも問い合わせた甲斐があった。またバラエティが出揃えば、人を家に呼んで呑むときなんかにも重宝する。小さなキューブの個包装がカラフルで、適当に器に盛っただけでもテーブルが華やぐ。そして、美味しい。オススメして気に入ってくれている知人もいることだし、このままプレーンだけになってしまうのは哀しい。

ああ、復活の日が待ち遠しい。


【関連ページ】
・<a href='http://www.itoham.co.jp/product/series/00000048.html' title='伊藤ハム | 商品情報 | チーズ | ベルキューブ'>伊藤ハム | 商品情報 | チーズ | ベルキューブ</a>
・<a href='http://www.bel-japon.com/product/belcube.html' title='BelJapon ベルジャポン[Belcube ベルキューブ]'>BelJapon ベルジャポン[Belcube ベルキューブ]</a>]]>
      
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   <title>ぼくはいつだって正しい</title>
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   <published>2009-06-12T10:37:36Z</published>
   <updated>2009-06-12T10:44:29Z</updated>
   
   <summary>ぼくはいつだって正しいことしか書かない。 当たり前だ。書きながら間違っていると思ったら、普通なら、そのまま書き続けたりはしないからだ。けれども、書き終えてのちに再読し、「ああ、あのときのぼくは間違っていた」と思うことはある。今度は、「あのときのぼくは間違っていた」と思っている自分こそが正しいと思っている。だから、やっぱり現在進行形のぼくは正しいということになる。つまり、ぼくの「正しい」にはいつだっ...</summary>
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   <category term="402" label="フィクション" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
   
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      ぼくはいつだって正しいことしか書かない。

当たり前だ。書きながら間違っていると思ったら、普通なら、そのまま書き続けたりはしないからだ。けれども、書き終えてのちに再読し、「ああ、あのときのぼくは間違っていた」と思うことはある。今度は、「あのときのぼくは間違っていた」と思っている自分こそが正しいと思っている。だから、やっぱり現在進行形のぼくは正しいということになる。つまり、ぼくの「正しい」にはいつだって（現在進行形のぼくにとっては）という但し書きがつく。間違っていると知りつつ書くとすれば、それは何か特殊な目的があるか何か特殊な精神状態に陥っているかのいずれかだろう。

たとえば、誰かを陥れるために思ってもいない言葉を書き連ねる。ブログでアクセスが欲しいためにセンセーショナルな釣り記事を書いてみたり、何か下心があって内心好きでもない人に取り入るための提灯記事を書いてみたり、衆愚の反応を見るための実験記事と称して低劣な偏向記事をぶちあげてみたり、特定のターゲットを怒らせるために罵倒のための屁理屈を捏ね回してみたり…あえて間違ったことを書く理性的な動機は色々と考えられる。そして、思う。ぼくは意図的に間違ったことを書いた。つまり、ぼくの考えそのものが間違っていたわけではない。低俗ではあっても。

或いは、自暴自棄になって思ってもいない暴言を吐く。ブログやトラックバックやコメントやブックマークコメントで日々思い知らされる他人の無理解に翻弄され、正しいはずのぼくの言葉を誤読し反論してくる批評家たちの群れに圧倒され、渾身のエントリーに埋もれていた致命的な誤りを手酷く指摘されて依怙地になり、果たしてぼくは理性も理路も放棄して結論ありきの無理筋を主張しはじめる。正しい言葉をどれだけ委曲を尽くして書き連ねたところで、所詮正しく読まれることはないのだとメタレベルへの螺旋階段を駆け上がる。神の視点から、ぼくは正しいと叫び続ける。

だから、ぼくはいつだって正しい。けれども、誰にとっても正しいわけではないらしい。ぼくの主張の正しさは、誰かにとっての正しさを意味しない。どころか、多くの人にとって誤りですらあるようだ。そんな世界は間違っている。ぼくが間違っていない以上、間違っているのは世の中の方であるべきだ。だからぼくは、ただぼく自身のために主張しよう。この世は間違っている、と。あなたたちは間違っている、と。それが、この間違った世界ではぼくだけの正しさにすぎないという事実を知りながら、あえてぼくは主張する。ぼくの正しさなど、所詮、そういうものでしかない。

ぼくはいつだって正しいけれど、きっとみんなも正しいのだろう。
      
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   <title>「表現の自由」をどんどん振りかざして愉しく生きよう</title>
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   <published>2009-06-11T04:02:51Z</published>
   <updated>2009-06-11T04:08:19Z</updated>
   
   <summary>果たして、正しい「表現の規制」は可能か？ ・表現の自由は、何を差し置いてでも守られなければならないものなのか、という件について - 想いは文字に ・凌辱ゲームも普通のエロゲーもエロマンガも軍事も不謹慎で差別的です - 革命的非モテ同盟 ・Gazing at the Celestial Blue 「表現の自由」は誰のものですか？ 無理だ。表現に限らず「自由」というのは大抵、共存が難しい。誰かの自由が...</summary>
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   <category term="395" label="社会問題" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://diary.lylyco.com/">
      <![CDATA[果たして、正しい「表現の規制」は可能か？

・<a href='http://d.hatena.ne.jp/juri-yamaguti/20090610/1244640433' title='表現の自由は、何を差し置いてでも守られなければならないものなのか、という件について - 想いは文字に'>表現の自由は、何を差し置いてでも守られなければならないものなのか、という件について - 想いは文字に</a>
・<a href='http://d.hatena.ne.jp/furukatsu/20090611/1244655939' title='凌辱ゲームも普通のエロゲーもエロマンガも軍事も不謹慎で差別的です - 革命的非モテ同盟'>凌辱ゲームも普通のエロゲーもエロマンガも軍事も不謹慎で差別的です - 革命的非モテ同盟</a>
・<a href='http://azuryblue.blog72.fc2.com/blog-entry-680.html' title='Gazing at the Celestial Blue 「表現の自由」は誰のものですか？'>Gazing at the Celestial Blue 「表現の自由」は誰のものですか？</a>

無理だ。表現に限らず「自由」というのは大抵、共存が難しい。誰かの自由が別の誰かの自由と衝突する。そこに問題が起きる。ひとつめのリンク先の「市民の利益」も同じだ。酷いポルノ表現が侵す「市民の利益」があるように、酷いポルノ表現が生む「市民の利益」もある。表現の自由によって「おばかさん？」などと書かれてしまったfurukatsu氏もまた守られるべき「市民」である。そして、furukatsu氏の求める「市民の利益」は、juri-yamaguti氏の主張する「市民の利益」と衝突してしまった。furukatsu氏など市民ではないし守られる価値もない。そんな態度は不遜である。

こうした「相反する利益の衝突」を権力によって調整するのが「規制」だろう。これは権力がどちらかの利益に肩入れすることを意味する。その判断は「恣意的」にしかなし得ない。たとえば、furukatsu氏の利益を守ることで世界中の女性が生き辛い世の中になるくらいならfurukatsu氏の利益なんて取り上げてしまえ、というような判断をする。問題はどんな表現がどれだけの人に対してどの程度の（有形無形の）利益を生み、他方でどれだけの人の利益を侵害しているかを本当に知ることは誰にもできないということである。だから、権力の介入は限りなく慎重でなければならない。

つまり、３つめのリンク先のタイトルの問い、「『表現の自由』は誰のものですか？」に対する答えは、「表現を制限されることで不利益を被るすべての人間」だ。決してある集団の「全体利益」のためにあるわけではない。あくまで個人のためのものでしかあり得ない。否、そうあるべきだ。だから、対立するのは常に個人対個人である。furukatsu氏対女性一般なんかではない。juri-yamaguti氏はポルノで不利益を被るかもしれない人たちの代表ではないし、当然、furukatsu氏はポルノで利益を得る人たちの代表ではない。それぞれがそれぞれの自由を主張しているだけのことだ。

それを権力によって「規制」するということは「集団の利益」という名の多数決、或いは、「声の大きな人の利益」という恣意を受け入れることを意味する。そうした権力によって不利益を被ってきた（と考えているだろう）はずの人たちが、自分たちの不利益を回復するために「規制」を叫ぶのはあまり理性的な態度とはいえない。それは旧来の権力闘争を温存するばかりの愚策である。ポルノを差別的だと捉え、自分の敵であると考える人こそポルノ表現の無制限の自由を主張すべきである。性差別的表現に限らずあらゆる差別表現すべてを、だ。一切の権力を否定するのである。

そして、「表現の自由」をもって自らの利益を犯そうとする表現を攻撃する。言論を糾合し、叩き、罵り、差別し、自らの不利益を、守るべき利益を声高に主張する。見える化が進んだ今なら、敵も味方も見えやすい。凌辱ポルノ愛好者を徹底的に嫌悪し差別する論陣を張ればいい。不快なものは不快だと、furukatsu氏などとんだ変態であり、世に溢れるラブ・ストーリーは女性差別でありレイプの物語なのだと堂々と主張すればいい。同胞が犯される物語を喜んで見るような女性をその洗脳から解き放つために「表現の自由」を行使すべきである。洗脳する側がそうしてきたように。

多くの男性が自分の性向に疑問を持ち「自分は間違っていたのだ」と思うような表現を徹底するのも自由、「誤った」性の常識を糾弾し自分の思う「正しい」性の常識を開陳するのも自由、自らの差別的変態性を表現し罵倒されるのも自由である。啓蒙され糾弾された変態は変態をやめようと思うかもしれないし、もっと罵ってくれと歓喜するかもしれない。或いは、そんな考え方を持つお前こそが変態なのだと反論してくるかもしれない。そんなことは誰にもコントロールできないし、すべきでもない。誰もが自由に表現し合えばいいのである。正しいのは決して自分だけではない。

自由に表現し、決して、自分の意見が何かの代表だなどと思いあがらないことである。]]>
      
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   <title>「自然」という実態のない権威主義と欺瞞、或いは、信仰</title>
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   <published>2009-06-10T05:26:29Z</published>
   <updated>2009-06-10T05:30:35Z</updated>
   
   <summary>「自然」という言葉を金科玉条のごとくに振りかざす。 そういう言論に出くわすと、ああまたか、とゲンナリする。それはたとえば、高度な医療行為に対する違和として、高度な科学技術への嫌悪として、生き難い現代社会への反発として、都合良く解釈され利用される。実際にはどれも「程度」と「好み」の問題にすぎない。そもそも自然と人工は対立概念ですらないとぼくは思っている。人間という生物もその営為も、すべてが自然の中に...</summary>
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      <![CDATA[「自然」という言葉を金科玉条のごとくに振りかざす。

そういう言論に出くわすと、ああまたか、とゲンナリする。それはたとえば、高度な医療行為に対する違和として、高度な科学技術への嫌悪として、生き難い現代社会への反発として、都合良く解釈され利用される。実際にはどれも「程度」と「好み」の問題にすぎない。そもそも自然と人工は対立概念ですらないとぼくは思っている。人間という生物もその営為も、すべてが自然の中に含まれている。それは勝負にならないレベルの包含関係である。鳥が巣を作り猿が社会を作るように、人間はロケットを作り街を作り国を作る。人間だけが特別だなどとはとんだ思い上がりだろう。

だいたい、薬物治療や臓器移植が不自然だというなら絆創膏を貼るのだって不自然なのである。風邪薬も氷嚢も体温計もみんな不自然だ。養生するのにベッドに寝るのも温かい服を着るのも不自然といえば不自然である。或いは、脳科学の知見を我田引水した教育が不自然なら、教育心理学に基づく教育も、先人たちの生活の知恵に基づく躾も不自然だ。躾も一種の世間知には違いない。いずれ人工的な「知のインストール行為」自体が不自然というべきである。脳に直接端子を突っ込んでそれをインストールすることと、親が懇々といって聞かせることとの間に決定的な断絶はない。

こんなことを書くと、それは極端だという人がでてくる。その通りである。もちろん、わざとやっている。これらが「程度」の問題であることをハッキリさせるためである。そして、「程度」の問題に明確な答えはない。輸血は許せてクローン臓器は許せない。それは決して輸血が「自然」でクローン臓器が「不自然」だからではない。輸血だって「不自然」だからダメだという人もいて当然だろうし、クローン臓器とて「自然」のうちだと考える人がいてもおかしくはない。それは倫理や価値観や感性の問題であって論理の問題ではない。線引きは恣意的なものにならざるを得ない。

かくの如く彼らの振りかざす「自然」に実体はない。おそらく、その定義について真剣に考えたことさえないんだろう。あれば、それが伝家の宝刀たり得ないことなどすぐに解るはずだ。彼らはただ「自分が自然に無理なく受け入れられるもの」を「自然」と呼んでいるにすぎない。ただの個人的な感覚を「自然」という言葉で権威付けし、自らの正当性を主張しているのである。当然そんなものに正当性は認められない。意図してやっているなら欺瞞以外の何ものでもないし、無意識にやっているならそれはほとんど信仰に近い何かである。人に押し付けられるようなものではない。

いずれ、無思慮に振りかざされる「自然」ほど空疎な権威はない。


【インスパイアされたページ】
・<a href='http://blog.goo.ne.jp/nijiirokyouiku3/e/ba6174278b7f998d1418e449682f6158' title='幼児にしてはならない教育 - 虹色教室通信'>幼児にしてはならない教育 - 虹色教室通信</a>
＃これに対するカウンターとして書いたわけではないけれど、考える切っ掛けになった。]]>
      
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   <title>ネト充もリア充も会社充もみんな勝ち組である</title>
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   <published>2009-06-09T04:35:51Z</published>
   <updated>2009-06-09T05:27:06Z</updated>
   
   <summary>人生を何で充実させるのが幸せかは人それぞれでいい。 ・リア充でもありネト充でもある人が、会社充とは限らないんだね・・・ これでは、会社充でないのが残念だ、というように聞こえる。もちろん当人が会社充でないことを残念だと思っているならそれは残念だけれど、少なくとも匿名氏に残念がられる謂われはない。同じ意味合いで、そのニュースサイト管理人がリア充でありネト充であるのかも本当のところは判らない。ただ、「す...</summary>
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      <![CDATA[人生を何で充実させるのが幸せかは人それぞれでいい。

・<a href='http://anond.hatelabo.jp/20080502134520' title='リア充でもありネト充でもある人が、会社充とは限らないんだね・・・'>リア充でもありネト充でもある人が、会社充とは限らないんだね・・・</a>

これでは、会社充でないのが残念だ、というように聞こえる。もちろん当人が会社充でないことを残念だと思っているならそれは残念だけれど、少なくとも匿名氏に残念がられる謂われはない。同じ意味合いで、そのニュースサイト管理人がリア充でありネト充であるのかも本当のところは判らない。ただ、「すごい精力的」にサイトを更新するにはバイタリティが要る。バイタリティが湧いてくるなら、それは限りなく「充実」に近いとはいえるかもしれない。ネト充なんて言葉で一般化するとややこしくなるけれど、ニュースサイトの管理でなにがしかの充足を得てはいるんだろう。

ここではスラングとしての「○充」が持つ微妙なニュアンスについてはあえて触れない。ただ、「それぞれのフィールドで充実している」という字義通りの素直な解釈をしておく。世間的には「仕事で充実すること」こそが幸せであるかのような風潮がいまだ根強い。それは仕事が食うために絶対必要なものだからだろう。どうせやらなきゃいけないなら厭々やるより愉しんでやる方がいいに決まっている。もちろん、ここでいう仕事は他人に対して「価値」を提供すること全般を指している。分かりやすい労働だけが仕事ではない。その意味で、すべての人間は必ず仕事をしている。

ただ、端的にお金に換えられる、或いは、換え易い「価値」というのは結構限られている。だから、まるでそうした仕事ばかりが仕事であるかのように思われる。そして、それ以外の「価値」が不当に低く扱われる。古風な例を挙げるなら、たとえば外で働くオトーサンが家を守るオカーサンを隷属させて疑問に思わないような価値観である。そんな心の奥底に染みついて硬直した価値観は、決して少なくない人たちを不幸にする。リンク先の匿名氏の言葉の端々に「会社充」への信仰が見て取れることにも病巣の深さは窺える。「会社充」など所詮は無限の中の一選択肢にすぎない。

充実するということは、そこに自らの（あらゆる意味での）労働資源を注ぎ込むということだ。ダラリと息を抜いた充実というのは、まず、あり得ない。充実は緊張と弛緩の絶妙なバランスの上に初めて成り立つ。集中しっぱなしも弛緩しっぱなしもダメである。もちろん、最適なバランスには個人差がある。他人から見れば息つく暇もないくらいに見えて実は最高に充実しているという人もいるだろうし、逆に、他人から見ればいつ集中しているのか分からないくらいに弛緩の比重が高い充実だってあると思う。決して、リアルもネットも会社も充実すれば幸せというものではない。

だから、自分に最適なバランスを取っていく上で、会社が集中の場にならなかったからといって、その人生が空虚なものだと決めつけることはできないし、一方で、会社のことばかりでプライベートを顧みない人生なんて虚しいと決めつけることもまたできない。どちらも凝り固まった価値観に精神を支配された同じ穴の狢である。問題は、集中がどこかに偏っていることではない。そもそも集中というのは偏ることだ。すべてにフラットな集中があり得ない以上、すべてにフラットな充実もない。そして、本当に問題なのは限りなくすべてがフラットに近付いてしまった人生だろう。

何に対しても充実できない…これを克服することの方がずっと難しい問題である。]]>
      
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