性欲とセックス欲は別物か?

それははじめは同じもので、いつの間にか包含関係に、そしてついには別物になる。

もう少し詳しく書こう。はじまりは思春期、或いは、第二次性徴の頃。下半身が心を支配する時代である。その頃、好きになる異性とセックスしたい異性は未分化だった。否、むしろ下半身が反応する異性をこそ、好きになっていたのかもしれない。だから、この頃のオナニーは少なくとも自分の中では明確に「セックスの代替行為」だったように思う。きっと未知なる性交への過大なる期待が、性欲をただ無条件にセックスへと向かわせていたんだろう。だから、性欲とセックス欲が同じものだったというよりは、セックスを知らないために同じに思えていたということなんだろう。

「セックスの代替物」としての性情報に溺れ、世の多彩な性嗜好を知るにつれ、セックスは性欲を満たすための手段として「たくさんあるうちのひとつ」になり下がる。恋愛感情や最中のコミュニケーションでさえ、より大きな性的満足を得るための(比較的重要な)材料でしかなくなる。つまり、セックス欲は性欲の中に包含され、恋愛は効果的なオプションとして機能しはじめる。依然下半身の支配力は強く、同時に、疎ましく汚らわしいものの代表である。自然、オナニーは「セックスの代替行為」ではなくなり、性行為の数多あるバリエーションのひとつとして再認識される。

やがて、セックスに対する「性的な意味での重要度」が低くなるにつれ、オプションだったはずのコミュニケーションがクロースアップされてくる。それは、セックス以外の性的行為にはあまり含まれないものだからだろう。セックスの特殊性を担保する要素として、それは重要な意味を持つことになる。敢えて乱暴ないい方をするなら、「コミュニケーションこそがセックスに残された本質」ということになる。ことここに至って、セックス欲は限りなくコミュニケーション欲に近しいものとなる。すでに「性欲」とは別物といっていい。性的快楽こそがオプションとなるのである。

かくして、下半身に駆動される汚らわしくも幸福な時代は終わりを告げ、美しくも残酷な終わりなきコミュニケーションの時代が幕を開ける…というような物語を、比較的な陳腐な人生のストーリーとして思いついた。はたしてどこまで一般性を持ち得るのかはわからない。そもそも、ぼく自身がこの物語をそっくりトレースしてきたわけでもない。「自分語り」の要素が皆無とはいわないけれど、少なくとも自らの過去を参照した結果ではない。ただ、ネットでも断続的に目にする性に関する言葉の多くが、こうしたテンプレートの中に収まってしまうように見えただけの話である。

ともあれ、こんな風にコミュニケーションにばかり囚われるのは御免である。

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