あえていう、「ソープへ行け」はライフハックなんかではない

「ソープへ行け」を北方メソッドなどと呼んで、勘違いしてはいけない。

そもそも小手先で気軽に自己啓発するような甘っちょろい話とは次元が違う。違いすぎる。あれは金で手軽に童貞を捨ててこいという意味ではない。そんな心構えでソープに行ったとてモヤモヤは晴れないに決まっている。引き続き「素人童貞」の呪縛に絡めとられてチャンチャンだ。意味がない。そもそも「ソープに行け」が「男になれ」の意であることは自明ではないか。「金で簡単に童貞を捨てる」ことが「男になる」ことなわけがない。なぜなら、そこにはロマンがないからだ。もちろん、ロマンスもない。ロマンもロマンスもなくて何が男か。ライフハックなど糞食らえだ。

ロマンを知るためのソープ。そうでなければ意味がない。それでは、ロマンとは何か。これをひと口に説明することはできない。ぼくなんかにできる道理がない。まず、北方謙三畢生の大河ロマン小説『水滸伝』(全19巻)を読むべきである。そして、楊令というひとりの少年の成長をその目でしかと確かめなければならない。この楊令は北方水滸における最も重要な登場人物といっていい。否、北方謙三が原典を離れて生み出し、故に、最も愛したキャラクターというべきだろう。それは彼が原典を超えて書き続けられている続編『楊令伝』の主人公であることからも明らかである。

北方謙三はその愛する楊令にいった。「ソープへ行け」と。はじめ楊令は拒んだ。けれども、北方はキャラクターの口を借りていい募る。「ソープへ行け」と。そして、楊令はみごと男になる。ぼくはこれを読んで初めて、北方謙三が「ソープへ行け」といい続けた真意を、少なくともその一端を、理解したと思った。そこにはロマンがあった。あまつさえ、ロマンスまであった。彼はただ金で童貞を捨てにきた客ではなく、女はただ自らの性を切り売りするだけの職業女ではなかった。その是非をここで云々するつもりはない。ただ、この出会いは間違いなく楊令を男にしたのである。

童貞を拗らせた愛すべき男たちよ、この意味が解らない内はソープになど行っても無駄である。


【amazonリンク】
北方謙三『水滸伝 完結BOX』(集英社文庫)
北方謙三『楊令伝 一』(集英社)
北方謙三『楊令伝 二』(集英社)
北方謙三『楊令伝 三』(集英社)
北方謙三『楊令伝 四』(集英社)
北方謙三『楊令伝 五』(集英社)
北方謙三『楊令伝 六』(集英社)
北方謙三『楊令伝 七』(集英社)
北方謙三『楊令伝 八』(集英社)

related entry - 関連エントリー

trackback - トラックバック

trackback URL > http://lylyco.com/cgi/mt/mt-tb.cgi/536

comment - コメント

こんばんは。なかなか興味深いネタだったので、反応してみます。
ソープへ行け、は有名な言葉ですが、巷での脱童貞メソッドではないと私も思います。

ぶっちゃけ童貞で悩むなんて、男としてはレベルが低い悩みなんですよ。ソープの気持ちよさ、お金で解決してしまう自分の性欲、疑似恋愛後の空虚な時間、背徳感と快楽が混じり合って、思わずソープ嬢の身の上を案じたりして、童貞までの悩みとは違ったレベルの悩みを抱えて日常の生活に戻ったときには、そいつは一皮むけているわけです。
そんな悩みをもったことのないやつロマンは分からないし、ましてや本当に女を愛することなんてできないんだと、勝手に思ってます。


> nacさん
このエントリー自体ネタみたいなものなので、まあ、ぼくの真意がまさにこの通りかといわれるとそうでもないんですが、ひとまず、ソープが童貞問題の解決に役立つ可能性は低いだろうとは思っています。
ともあれ、童貞が男としてレベルの低い悩みかはどうかは、その人がどこまでどんな風に悩んでどんな結論を出すかによるんでしょうね。なんかものすごく濃いものが出てくればそれはそれで面白いと思います。まあ、ぼく自身は残念ながら「玄人童貞」で風俗の妙味を知らないわけですが。

コメントを投稿

エントリー検索